日記 + 最新小説保管 / 創作・版権二次創作 / 同性愛要素、性表現含
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変化
「ユー院長、最近変わりましたよね。なんていうか、目が優しくなった気がします」
患者達の巡回を終えて自室に戻る道すがら、たまたま同行した同僚の医師天使にそう言われた俺は、思わず苦笑した。
結構驚かれるのだが、天使でも怪我はするし、病気になる。老いや寿命がないというだけで、心身を損ねることは避けられない。天使の躯は自己修復能力に秀でているが、やはりそれにも限界がある。特に精神に負う傷の厄介さは人間であった頃の比ではない。そういった天使達を収容し、治療しているのがこの病院だった。
治癒能力を備えた天使たちが医師や看護士となり、仲間を支えている。
俺はそれらの監督役であり、院長という役職についていた。天使という存在になった歴史はそう古くなく、むしろ浅い。そんな俺が院長を勤めていられるのは、生前医学を学んでいたからというよりも、単に潜在能力が高かったというだけだろう。
医師天使としてのキャリアは俺よりも長いその同僚は、俺の苦笑を畳み掛けるように言葉をつなぐ。
「こう言っては何ですが、他の医師達や患者からも昔の貴方は怖いって評判だったんですよ。腕は良いのに、愛想笑いしか浮かべないって」
「……否定しようが無いな」
「ファイ様がいらしてるときは素の貴方が見られましたが、それで余計感じたんですよね、私達に壁を作ってるって」
そういえば、と俺は昔を振り返る。確かにあの頃は、心許して対話をしていたのは、同位であるファイくらいだった。もう一人の同位である椎奈……いやシータはどこか会話が機械的で堅苦しく、おおよそ冗談も通じないと思っていた。今の椎奈には面影のかけらも無いが。
ファイに対しての態度と、同僚医師天使達への態度に分け隔てをしていたつもりは無いが、愛想笑いと看破されていたのであれば返す言葉も無い。
言ってみれば仕事が円滑に進むよう『優しい院長先生』を演じていたに過ぎないのだから。
「で、今は違うのか」
「ええ」
医師天使キャリアだけでなく、外見も自分より十は上の同僚は記憶を手繰るように目を細める。
「椿さんがお手伝いに来るようになって、そこかしこで豹君の姿を見るようになって、本当にお変わりになりました」
「例えば?」
「そうですね。普段ファイ様以外に決して悋気を見せなかったユー院長が豹君に走り回るなとお説教をしていたり。椿さんが看護士達と和気あいあいしているおかげで、以前なら決して入ろうとしなかった輪に混じってこられたり。そうそう、こうして道すがら雑談なんてしなかったでしょう?」
「言われてみれば、そうだな」
「あのお二人がユー院長を良いように変えたのだと、みんな思っていますよ」
「椿は良いが、豹までか?」
やれやれとため息を吐くと、同僚医師天使がぷっと吹き出した。
「椿さんは良いのですか」
「……ああ」
そうですか、と微笑ましげに見つめてくる同僚医師天使の視線がどうにもこそばゆく、俺は手にしていたカルテを開いてぱらぱらとめくる。
「そう照れなくとも。ご案じなさらずとも、上には口外いたしませんよ」
天界では天使同士が恋愛感情を持つことを禁忌としていて、上──天界の上層部にそれが知られれば重い罰が下る。
元々天使ではない椿や豹がここに出入りしていること事態が規格外なのだが、そこは桁外れな蒼王の護りの力によるもの。彼らの存在や俺と椿の関係は、内部から告発をされれば終わりという非常に危うい均衡の上に成り立っている。
そう考えれば、事情を知りながら沈黙を守ってくれている病院スタッフにはいくら感謝をしても足りない。
「……いつも、ありがとう」
「はい?」
「いや、聞こえなかったならいい」
「じゃ聞こえなかったということで。あ、院長室着きましたね」
気がつけばすでに院長室の目の前だった。同僚医師天使はしれっと笑ってから「それでは」と軽く頭を下げて去っていく。
「本当に、感謝している」
去っていく背中に小声で謝辞を述べ、俺は院長室のドアを開けた。
患者達の巡回を終えて自室に戻る道すがら、たまたま同行した同僚の医師天使にそう言われた俺は、思わず苦笑した。
結構驚かれるのだが、天使でも怪我はするし、病気になる。老いや寿命がないというだけで、心身を損ねることは避けられない。天使の躯は自己修復能力に秀でているが、やはりそれにも限界がある。特に精神に負う傷の厄介さは人間であった頃の比ではない。そういった天使達を収容し、治療しているのがこの病院だった。
治癒能力を備えた天使たちが医師や看護士となり、仲間を支えている。
俺はそれらの監督役であり、院長という役職についていた。天使という存在になった歴史はそう古くなく、むしろ浅い。そんな俺が院長を勤めていられるのは、生前医学を学んでいたからというよりも、単に潜在能力が高かったというだけだろう。
医師天使としてのキャリアは俺よりも長いその同僚は、俺の苦笑を畳み掛けるように言葉をつなぐ。
「こう言っては何ですが、他の医師達や患者からも昔の貴方は怖いって評判だったんですよ。腕は良いのに、愛想笑いしか浮かべないって」
「……否定しようが無いな」
「ファイ様がいらしてるときは素の貴方が見られましたが、それで余計感じたんですよね、私達に壁を作ってるって」
そういえば、と俺は昔を振り返る。確かにあの頃は、心許して対話をしていたのは、同位であるファイくらいだった。もう一人の同位である椎奈……いやシータはどこか会話が機械的で堅苦しく、おおよそ冗談も通じないと思っていた。今の椎奈には面影のかけらも無いが。
ファイに対しての態度と、同僚医師天使達への態度に分け隔てをしていたつもりは無いが、愛想笑いと看破されていたのであれば返す言葉も無い。
言ってみれば仕事が円滑に進むよう『優しい院長先生』を演じていたに過ぎないのだから。
「で、今は違うのか」
「ええ」
医師天使キャリアだけでなく、外見も自分より十は上の同僚は記憶を手繰るように目を細める。
「椿さんがお手伝いに来るようになって、そこかしこで豹君の姿を見るようになって、本当にお変わりになりました」
「例えば?」
「そうですね。普段ファイ様以外に決して悋気を見せなかったユー院長が豹君に走り回るなとお説教をしていたり。椿さんが看護士達と和気あいあいしているおかげで、以前なら決して入ろうとしなかった輪に混じってこられたり。そうそう、こうして道すがら雑談なんてしなかったでしょう?」
「言われてみれば、そうだな」
「あのお二人がユー院長を良いように変えたのだと、みんな思っていますよ」
「椿は良いが、豹までか?」
やれやれとため息を吐くと、同僚医師天使がぷっと吹き出した。
「椿さんは良いのですか」
「……ああ」
そうですか、と微笑ましげに見つめてくる同僚医師天使の視線がどうにもこそばゆく、俺は手にしていたカルテを開いてぱらぱらとめくる。
「そう照れなくとも。ご案じなさらずとも、上には口外いたしませんよ」
天界では天使同士が恋愛感情を持つことを禁忌としていて、上──天界の上層部にそれが知られれば重い罰が下る。
元々天使ではない椿や豹がここに出入りしていること事態が規格外なのだが、そこは桁外れな蒼王の護りの力によるもの。彼らの存在や俺と椿の関係は、内部から告発をされれば終わりという非常に危うい均衡の上に成り立っている。
そう考えれば、事情を知りながら沈黙を守ってくれている病院スタッフにはいくら感謝をしても足りない。
「……いつも、ありがとう」
「はい?」
「いや、聞こえなかったならいい」
「じゃ聞こえなかったということで。あ、院長室着きましたね」
気がつけばすでに院長室の目の前だった。同僚医師天使はしれっと笑ってから「それでは」と軽く頭を下げて去っていく。
「本当に、感謝している」
去っていく背中に小声で謝辞を述べ、俺は院長室のドアを開けた。
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ワーカホリック
所詮は与えられた場所で任じられた責務をこなす毎日を送るだけの人形。それが俺という存在だ。
人形なんだから、たとえ俺が壊れたって代わりは掃いて捨てるほどいる。いくらだって量産できる体制が敷かれていることを知っている。
もしかしたら、俺に似た『誰か』がすぐ隣の部屋で、今の俺よりも効率と成果を挙げているかもしれない。そうなったら今の俺はあっという間にお払い箱、どこかに払い下げされるならともかく廃棄処分になる未来だってありえる。
だからこそ俺は存在意義を奪われないように、ただ毎日を忠実に生きるだけだ。
キーボードをたたく指が痛んでも、眼精疲労で頭痛が酷くても、そんなのは鎮痛剤でごまかせばいい。
俺が恐れるのは、生きる意味を失うこと──ここにいる意味を失うのが、何にも変え難い恐怖だった。
「ヴェール」
「……ノワールか。何」
俺はディスプレイから目を離さないまま、黒の名を与えられた仲間であるノワールに返答した。一体いつの間に傍に立っていたのかまったく気配が無かったが、いつものことなのでたいして驚きも無い。
まあ、若干心臓に悪いのは否めないが。
黒白緑紅蒼──それぞれ五色の色を名として与えられた俺達は、基本的にここ、主の経営するビルの本社屋、存在を伏せられている地下三階で生活している。主に与えられたアンダーグラウンドな雰囲気バリバリなこのフロアは、陽が射さないことを除いて特に不便は無い。大企業だけあって置かれているものも上等だし、プライベート用の個室も仕事用の個室も与えられている。
電子工学に長けるように作られた俺は、情報処理の仕事を専門としている。そんな俺が仕事をしやすいよう、俺専用の部屋にはコンピュータも最新のものが揃えられていた。
五人それぞれが得意分野を持っていて、ちなみにこのノワールは主にネゴシエイション──要するに難題の交渉役を請け負っている。あとはリーダーである白、ブランの護衛も兼ねてるか。
付け加えるなら、俺達全員の世話役も。外見年齢が精神年齢に比例している所為か、長身のノワールは傍目二十代半ば。仲間内での長兄役もしてるようなもんだった。
「そろそろ休んだほうがいい。このところろくに寝ていないだろう」
「別に、大丈夫だし」
「目を悪くするぞ」
「視力回復の施術受けるから良いよ」
「施術の類が嫌いなお前がか?」
「……」
実際俺は定期的に受ける診断さえ嫌っていて、他人に体を触れられるのが厭う。
俺の性格というか性癖を良く踏まえたうえでのお小言なので、それは返す言葉が無い。
腕を組んで俺を見下ろすノワールの視線に、呆れだけでなく心配も含まれているのを察した俺は、降参とばかりにキーボードから手を離し、掌を頭の横へとあげた。
ホールド・アップ、だ。
「了解。この続きは明日にしとく」
「明日、だな?」
念を押すようなノワールの言葉に疑念を感じた俺は、慌ててディスプレイの時刻表示を確認する。
時間を忘れて作業していたが、現時刻は0時を回ったばかり。
つまり『明日』は正味二十四時間後になる。
「……やっぱ今夜まで休むことにする」
へらっと誤魔化すように笑ってみたが、ノワールからは無言の軽い小突きが返ってきた。
「痛って」
「おとなしく二十四時間後以降にするんだ」
「……へいへい」
こう言われてしまえば逆らう術は無い。むしろここで下手に抵抗したら、今すぐにコンピュータを電源から──勿論保存する前に、引っこ抜かれてしまうこと請け合いだ。
それは流石に勘弁してもらいたい俺は、おとなしくノワールの言に従うことにした。
「ヴェール」
「何だよ」
メディアにデータを保存している俺の手に、ノワールは半透明のカプセルを一錠握らせた。
「『眠れない』なら使うといい」
普段ポーカーフェイスな仏頂面に珍しく柔らかい笑みを乗せたノワールは、それだけ言うと部屋を出て行く。
手にしたカプセルは、見覚えのあるものだった。
……参ったな。流石、見抜かれてたか。
「俺が仕事してる理由、ノワールにはバレバレか」
ノワールの出て行った扉が完全に閉まるのを待ってから、薬を握り締めた俺は半笑いで天井を見上げた。
仕事をしてさえいれば、恐怖に支配されなくてすむ。逆に仕事をしていないと、特に眠りに落ちるまでの時間は恐怖に支配される。
それがいやで、ひたすらワーカホリックを決め込んでいたこと、あの気が良く回る参謀にはお見通しだったってわけだ。
「んじゃ、お言葉に甘えて眠るとするか」
メディアへの保存が終わったコンピュータの電源を落とし、俺はノワールがくれた手の中の安心──強力な睡眠薬を飲む為のお茶が入っている室内の冷蔵庫を開けた。
人形なんだから、たとえ俺が壊れたって代わりは掃いて捨てるほどいる。いくらだって量産できる体制が敷かれていることを知っている。
もしかしたら、俺に似た『誰か』がすぐ隣の部屋で、今の俺よりも効率と成果を挙げているかもしれない。そうなったら今の俺はあっという間にお払い箱、どこかに払い下げされるならともかく廃棄処分になる未来だってありえる。
だからこそ俺は存在意義を奪われないように、ただ毎日を忠実に生きるだけだ。
キーボードをたたく指が痛んでも、眼精疲労で頭痛が酷くても、そんなのは鎮痛剤でごまかせばいい。
俺が恐れるのは、生きる意味を失うこと──ここにいる意味を失うのが、何にも変え難い恐怖だった。
「ヴェール」
「……ノワールか。何」
俺はディスプレイから目を離さないまま、黒の名を与えられた仲間であるノワールに返答した。一体いつの間に傍に立っていたのかまったく気配が無かったが、いつものことなのでたいして驚きも無い。
まあ、若干心臓に悪いのは否めないが。
黒白緑紅蒼──それぞれ五色の色を名として与えられた俺達は、基本的にここ、主の経営するビルの本社屋、存在を伏せられている地下三階で生活している。主に与えられたアンダーグラウンドな雰囲気バリバリなこのフロアは、陽が射さないことを除いて特に不便は無い。大企業だけあって置かれているものも上等だし、プライベート用の個室も仕事用の個室も与えられている。
電子工学に長けるように作られた俺は、情報処理の仕事を専門としている。そんな俺が仕事をしやすいよう、俺専用の部屋にはコンピュータも最新のものが揃えられていた。
五人それぞれが得意分野を持っていて、ちなみにこのノワールは主にネゴシエイション──要するに難題の交渉役を請け負っている。あとはリーダーである白、ブランの護衛も兼ねてるか。
付け加えるなら、俺達全員の世話役も。外見年齢が精神年齢に比例している所為か、長身のノワールは傍目二十代半ば。仲間内での長兄役もしてるようなもんだった。
「そろそろ休んだほうがいい。このところろくに寝ていないだろう」
「別に、大丈夫だし」
「目を悪くするぞ」
「視力回復の施術受けるから良いよ」
「施術の類が嫌いなお前がか?」
「……」
実際俺は定期的に受ける診断さえ嫌っていて、他人に体を触れられるのが厭う。
俺の性格というか性癖を良く踏まえたうえでのお小言なので、それは返す言葉が無い。
腕を組んで俺を見下ろすノワールの視線に、呆れだけでなく心配も含まれているのを察した俺は、降参とばかりにキーボードから手を離し、掌を頭の横へとあげた。
ホールド・アップ、だ。
「了解。この続きは明日にしとく」
「明日、だな?」
念を押すようなノワールの言葉に疑念を感じた俺は、慌ててディスプレイの時刻表示を確認する。
時間を忘れて作業していたが、現時刻は0時を回ったばかり。
つまり『明日』は正味二十四時間後になる。
「……やっぱ今夜まで休むことにする」
へらっと誤魔化すように笑ってみたが、ノワールからは無言の軽い小突きが返ってきた。
「痛って」
「おとなしく二十四時間後以降にするんだ」
「……へいへい」
こう言われてしまえば逆らう術は無い。むしろここで下手に抵抗したら、今すぐにコンピュータを電源から──勿論保存する前に、引っこ抜かれてしまうこと請け合いだ。
それは流石に勘弁してもらいたい俺は、おとなしくノワールの言に従うことにした。
「ヴェール」
「何だよ」
メディアにデータを保存している俺の手に、ノワールは半透明のカプセルを一錠握らせた。
「『眠れない』なら使うといい」
普段ポーカーフェイスな仏頂面に珍しく柔らかい笑みを乗せたノワールは、それだけ言うと部屋を出て行く。
手にしたカプセルは、見覚えのあるものだった。
……参ったな。流石、見抜かれてたか。
「俺が仕事してる理由、ノワールにはバレバレか」
ノワールの出て行った扉が完全に閉まるのを待ってから、薬を握り締めた俺は半笑いで天井を見上げた。
仕事をしてさえいれば、恐怖に支配されなくてすむ。逆に仕事をしていないと、特に眠りに落ちるまでの時間は恐怖に支配される。
それがいやで、ひたすらワーカホリックを決め込んでいたこと、あの気が良く回る参謀にはお見通しだったってわけだ。
「んじゃ、お言葉に甘えて眠るとするか」
メディアへの保存が終わったコンピュータの電源を落とし、俺はノワールがくれた手の中の安心──強力な睡眠薬を飲む為のお茶が入っている室内の冷蔵庫を開けた。
シェルター
年代を感じさせる木製の扉を開けると、古めかしい音が鳴る。この店を建てるときに木目が気に入ってわざわざ取り寄せた扉は、店の自慢の一つだ。
扉の向こうはぼんやりとしたミルク色の朝もやに包まれていた。もうまもなく陽が昇る時間にも関わらず、ちらほらと人通りがあるのは流石歓楽街の一角といったところか。
「それじゃ、今日もお疲れ様」
「はい。ではまた今夜」
「ああ。風邪が治りきっていないんだから、体の具合が悪かったら迷わず連絡するんだよ」
「……善処します」
苦笑いを浮かべて会釈し、そのまま家路についた働き者のバーテンダーの背中を見送ってから、水城は手にしていた閉店の札を下げ、扉の前に置かれた朝刊を拾い上げると店の中へと引き返した。
店とは別に自宅を持っているのだが、一人になった店内で朝刊を読みつつ一杯の珈琲を飲むのが開店以来の習慣だった。
豆はその日の気分で変わる。棚からキリマンジャロを一杯分だけ取り出し、ドリップして琥珀色の珈琲を淹れた水城は、カウンターにそれを置いてから椅子に腰掛けた。
そうしてカップから漂う香りを楽しみながら、刷りたての新聞にざっと目を通していく水城の視線が、ふと止まる。
大きな見出しも無い、それは小さなスペースに載せられたコラムだった。
曰く『家というのは、個を守るシェルターの役割を持っている』という書き出しから始まるその記事は、家族や家というものの大切さを力説していて、『現代日本においてもっとも見直さなければならないのは、家族の絆と帰属する家なのだ』と〆ていた。
コラムを最後まで読みきった水城の心はノンシュガーのキリマンジャロ以上に苦いものを感じる。
果たして自分にとって自宅、つまり家がシェルターに値するのかと問われれば、首を横に振るだろう。
水城にとって自宅とは睡眠をとる場所であり、それ以上でもそれ以下でもない。
店内のインテリアは非常にこだわるが、自宅はというと生活に必要最低限のものが置かれているだけで、シンプルを通り越して殺風景に近い。
両親は早くに先立たれ兄弟もなく、また家庭も持っていない自身にとっての『シェルター』は自宅である家ではなく、この店。それも、閉店後の誰もいないこの空間なのだろう。誰にでも扱える頼りない閉店の札が、閉ざされた自身の心において鍵の役割をしているようで滑稽に思えてくる。
誰にでも扉を開き招き入れる店と、滅多なことでは開かない心の扉。
確かに水城の自宅はシェルターと呼ぶに値しない。だが相反する矛盾に満ちたこの場所こそが、やはり自分にとってのシェルターなのだろう──そう結論付けた水城は、思いのほか長く思索にふけった所為で幾分冷めてしまった珈琲の入ったカップに手を伸ばす。
予想通り温くなっていたノンシュガーノンミルクの珈琲が、何故だか水城にはほんのり甘みを持っているように感じられた。
扉の向こうはぼんやりとしたミルク色の朝もやに包まれていた。もうまもなく陽が昇る時間にも関わらず、ちらほらと人通りがあるのは流石歓楽街の一角といったところか。
「それじゃ、今日もお疲れ様」
「はい。ではまた今夜」
「ああ。風邪が治りきっていないんだから、体の具合が悪かったら迷わず連絡するんだよ」
「……善処します」
苦笑いを浮かべて会釈し、そのまま家路についた働き者のバーテンダーの背中を見送ってから、水城は手にしていた閉店の札を下げ、扉の前に置かれた朝刊を拾い上げると店の中へと引き返した。
店とは別に自宅を持っているのだが、一人になった店内で朝刊を読みつつ一杯の珈琲を飲むのが開店以来の習慣だった。
豆はその日の気分で変わる。棚からキリマンジャロを一杯分だけ取り出し、ドリップして琥珀色の珈琲を淹れた水城は、カウンターにそれを置いてから椅子に腰掛けた。
そうしてカップから漂う香りを楽しみながら、刷りたての新聞にざっと目を通していく水城の視線が、ふと止まる。
大きな見出しも無い、それは小さなスペースに載せられたコラムだった。
曰く『家というのは、個を守るシェルターの役割を持っている』という書き出しから始まるその記事は、家族や家というものの大切さを力説していて、『現代日本においてもっとも見直さなければならないのは、家族の絆と帰属する家なのだ』と〆ていた。
コラムを最後まで読みきった水城の心はノンシュガーのキリマンジャロ以上に苦いものを感じる。
果たして自分にとって自宅、つまり家がシェルターに値するのかと問われれば、首を横に振るだろう。
水城にとって自宅とは睡眠をとる場所であり、それ以上でもそれ以下でもない。
店内のインテリアは非常にこだわるが、自宅はというと生活に必要最低限のものが置かれているだけで、シンプルを通り越して殺風景に近い。
両親は早くに先立たれ兄弟もなく、また家庭も持っていない自身にとっての『シェルター』は自宅である家ではなく、この店。それも、閉店後の誰もいないこの空間なのだろう。誰にでも扱える頼りない閉店の札が、閉ざされた自身の心において鍵の役割をしているようで滑稽に思えてくる。
誰にでも扉を開き招き入れる店と、滅多なことでは開かない心の扉。
確かに水城の自宅はシェルターと呼ぶに値しない。だが相反する矛盾に満ちたこの場所こそが、やはり自分にとってのシェルターなのだろう──そう結論付けた水城は、思いのほか長く思索にふけった所為で幾分冷めてしまった珈琲の入ったカップに手を伸ばす。
予想通り温くなっていたノンシュガーノンミルクの珈琲が、何故だか水城にはほんのり甘みを持っているように感じられた。
開店準備中
ミルク色の薄い霧に包まれた店の前で両手を組み、そのまま組んだ手を裏返しつつ頭上へ運んで「うーん」と軽く体を伸ばした神楽は、肩を軽く上下させてから店のシャッターに手を添えて一気に開けた。
ガラガラと音を立ててシャッターが軒に吸い込まれ、代わりにコの字型にガラスがはめ込まれたシンプルな造りの店が顔を出す。
ガラスの壁に大して目立った汚れはないが、神楽はあらかじめ足元に用意した雑巾でガラスを拭き始めた。
天界と地上の合間に存在するこの場所は天候や時間の概念が曖昧なのだが、生来几帳面な性格の神楽は、生活サイクルや開店時間を地上に合わせている。
地上時間は現在午前七時を回ったくらい。とはいえ開店時間は午前十時なので、現在はクローズの札がかかっていた。
あらかたガラスを拭き清め終え、曇りひとつ無くなったガラスを満足そうに見る。毎朝の日課であるガラス拭きは、来て下さるお客様への心遣いであると同時に、己の心を清めている気がするのだ。
汚れを落とした心で作ったほうが菓子も美味しく出来上がるに違いない、というのが神楽の持論である。
「さて、今日も頑張ろう」
呟いた神楽は店の中に入り、まだ何も並べていないガラスのショーケースの前に佇み、じっと見つめた。
仕込みをするのも作るのも、売るのも接客もすべて彼一人で行っている。勿論、店内のレイアウトも彼の仕事だ。神楽が経営しているこの店では基本的に洋菓子を、あとは時節に関した和菓子も取り扱っていた。地上では五月の節句を超え、そろそろさっぱりとした冷菓が好まれる季節に差し掛かっていた。そのあたりを踏まえて材料を揃えてあるので、あとはいつ頃から店頭に並べるかだ。
「そろそろ水羊羹と……葛饅頭か」
他にも並べるものをいくつか決め、神楽は厨房に入る。
これから開店の約二時間が勝負だ。真剣な表情をした神楽は、コックコートの襟を正し、帽子を被って業務用冷蔵庫の扉を開いた。
早朝から仕込みをして作ったスポンジや生クリーム達を使って、幾種類ものケーキを生み出す。その種類は朝の僅かな時間──ガラスを拭いている間とショーケースを眺める間に決まる。故に神楽の気分次第で陳列内容が変わる。なので、水羊羹と葛饅頭が加わるのも先程決まったばかりなのだ。
材料をテーブルに並べた神楽は小さく息を吐いて瞳を伏せる。
「今日のお菓子も、誰かの為になりますよう」
小さな声で祈りを捧げてから瞳を開けた神楽は、今日のお客の為の菓子を手早く作り始めた。
ガラガラと音を立ててシャッターが軒に吸い込まれ、代わりにコの字型にガラスがはめ込まれたシンプルな造りの店が顔を出す。
ガラスの壁に大して目立った汚れはないが、神楽はあらかじめ足元に用意した雑巾でガラスを拭き始めた。
天界と地上の合間に存在するこの場所は天候や時間の概念が曖昧なのだが、生来几帳面な性格の神楽は、生活サイクルや開店時間を地上に合わせている。
地上時間は現在午前七時を回ったくらい。とはいえ開店時間は午前十時なので、現在はクローズの札がかかっていた。
あらかたガラスを拭き清め終え、曇りひとつ無くなったガラスを満足そうに見る。毎朝の日課であるガラス拭きは、来て下さるお客様への心遣いであると同時に、己の心を清めている気がするのだ。
汚れを落とした心で作ったほうが菓子も美味しく出来上がるに違いない、というのが神楽の持論である。
「さて、今日も頑張ろう」
呟いた神楽は店の中に入り、まだ何も並べていないガラスのショーケースの前に佇み、じっと見つめた。
仕込みをするのも作るのも、売るのも接客もすべて彼一人で行っている。勿論、店内のレイアウトも彼の仕事だ。神楽が経営しているこの店では基本的に洋菓子を、あとは時節に関した和菓子も取り扱っていた。地上では五月の節句を超え、そろそろさっぱりとした冷菓が好まれる季節に差し掛かっていた。そのあたりを踏まえて材料を揃えてあるので、あとはいつ頃から店頭に並べるかだ。
「そろそろ水羊羹と……葛饅頭か」
他にも並べるものをいくつか決め、神楽は厨房に入る。
これから開店の約二時間が勝負だ。真剣な表情をした神楽は、コックコートの襟を正し、帽子を被って業務用冷蔵庫の扉を開いた。
早朝から仕込みをして作ったスポンジや生クリーム達を使って、幾種類ものケーキを生み出す。その種類は朝の僅かな時間──ガラスを拭いている間とショーケースを眺める間に決まる。故に神楽の気分次第で陳列内容が変わる。なので、水羊羹と葛饅頭が加わるのも先程決まったばかりなのだ。
材料をテーブルに並べた神楽は小さく息を吐いて瞳を伏せる。
「今日のお菓子も、誰かの為になりますよう」
小さな声で祈りを捧げてから瞳を開けた神楽は、今日のお客の為の菓子を手早く作り始めた。
ハワード×チェイサー (ハワ×エレ前提)
その日、俺は相当にむしゃくしゃしていた。
普段自炊派なのに、今日に限ってたまたま食材が切れていたので夕飯を適当に見繕おうとプロの街を歩いていて、たまたま行きつけの安くて美味い屋台が店閉じていたので他のとこに行ったら、これまた偶然にも知り合いのロードナイトにばったり会った。
冒険者同士、久々に会ってする事といったら飲みながらの近況話。折りよく時間も夕食前だったおかげでとんとん拍子に話が進み、適当に近い店で飲むことになったわけなんだが。
奴の口から出てくるのがまあ自慢ばかりで、MVPなんて取り慣れてるだとかエンドレスタワーじゃ自分が要だとか。そこそこ規模のでかいギルドにいる奴と違って、俺は基本的にソロばかりなので人脈もあまりない。たまーに知り合いのハイプリとペアしたりする程度。
だからこいつとの環境差から生まれるものは仕方ないと思っていた。
こいつの、ある台詞を聞くまでは。
「ま、ソロ性能でもお前に負ける気はしないぜ。なんたって俺はあの生体研究所のレベル制限エリアでもソロが出来るしな」
機嫌よさげにジョッキを豪快に開けながら話す奴の自慢、たあそれがソロに関してだっていうなら俺だって黙ってない。伊達にソロ暦長いわけじゃないんだぜ。
「何言ってんだ。俺だってレベル制限区域に入るくらい出来るぜ」
だが奴は俺の反論を鼻で笑って受け流した。
「入るだけならな。でもソロはいくらなんでも無理だろ。ま、お前みたいなヒヨっ子チェイサーにはまだまだ遠い場所ってことだよ」
カチン、ときたね。そりゃそうだろ、普段PTの前衛ばかりでソロなんてほぼしない奴と比べて、俺がソロの立ち回りで負けるわけない。
──今思えば多分に酒が入っているせいで、俺の気は普段ポリン程度のものがマスターリング位には大きくなっていた。あ、強さじゃなくて体積な。
「は、何言ってんだ。俺がソロの立ち回りでお前に負けるわけねえよ」
「無理無理。いくらお前が盗作でストームガストいけたって本職の廃魔にゃかなわねえし、ODならともかくあそこじゃ通用しないね。第一そんな華奢な躯じゃ一発くらっただけで逝っちまう。立ち回りでカバーできる問題じゃねえよ」
この俺でさえ白スリム積んでいくとこなんだから、と奴は笑う。
「お前、魔法盗作型馬鹿にすんなよ。上級ダンジョンだって行けるんだ。こないだだって俺はグランドクロス盗作して、ハイプリペアで修道院の三階だって行ってきたんだからな」
「ほーそりゃすげえ。だが今話してるのはソロでの生体研究所だからな」
「けっ、上等だ。なら今から行って来て証明してやるよ! ソロだって行けるって事をな!」
「おおいいぜ、ならレベル制限区域ならではの物を土産に持ってきたら信じてやる。まさかとは思うが、露店で買ったりすんなよ」
「うっせ黙れ、後で見てろよ」
あまり酒を飲む習慣のない俺にしては珍しい、三杯目を数えるジョッキをぐぐっと一気に空にした俺は、多目の勘定をテーブルに叩きつけてプロンテラの南門に向かった。
無論、イズルートからの飛行船に乗る為に。
その日、俺は相当に苛々していた。
切欠自体は大したことじゃなかった。ああ、確か見回りのことについて話してたんだっけか。
俺は単独での見回りはそろそろ危険なんじゃないかと、二人以上での見回りを提案した。日々レベルアップしていく侵入者達に備えて、珍しく安全を求める意見を出した。
だがエレメスは、女性陣はそのほうが良いだろうと一旦は賛成したものの、自分に限っては単独で良いと言い張った。
それじゃ意味がない、と俺が言えば、エレメスは女性陣の負担を増やしたくないという。なら男性陣でローテを増やせば良いといえば、自分は一人で十分だとぬかす。
気持ちはわからないでもない。けれど俺は先日集団の、それも恐ろしく構成を練った侵入者達を見かけ危機感を感じたのだ。と理由を何度も言っても、俺の話が誇張だと思ったのか頑として受け入れない。ここに関しては普段の俺の言動が仇になっていた。
軽い物言いから段々と口論になり、止めようと努力してくれた仲間の努力も虚しくそれは激しいものになっていた。
俺はあいつが地に伏せているところを見たくないだけなのにだ。
プライドの高いあいつに、それは耐えられない屈辱だろうと思っての、俺にしてはかなり珍しい慎重論だったのにだ。
何故、それが判らない。
──それが心配りが逆にあいつの矜持を傷つけていたんだろうが、そのときの俺は頭に血が上っていて判らなかった。
結局見かねたセイレンが間に入り、お互いもう少し頭を冷やせと至極もっともなお叱りを受け、今の状態で話し続けても埒が明かないだろうと俺らは自室へ戻された。
忌々しくはあったが、言われていることは事実だったので大人しく従った。
……あいつを心配していただけなのに。
去り際に見せたあいつの、俺に向けた冷たい視線を思い出すと、理解されなかった苛立ちと寂寥が交互に俺を苛んだ。
悪いことを言ったとは思っていない。今回に関しては、あいつが悪い。
今一人でフロアを回ることの危険さを、あの石頭にどうすれば判らせてやれるか。
だったら、見せてやれば良い。
一人歩きをして傷ついた俺の姿でも見せてやれば良い。少なくとも俺はあいつよりもタフだ。多少傷ついたところで、痛くも痒くもねえ。そうして仲間に「ほれみたことか」と叱られて、海よりも深く反省させてやるか。
そう決断した俺は愛用の斧を手に取り、皆に気づかれないようそっと自室を後にした。
生温い空気がチェイサーの躯にねっとりと纏わりつく。
酔っているとはいえ、オーラ間近の彼にとって流石に二階の敵は苦もなく倒すことが出来、悠々と三階へと侵入を果たせた。
果たせたまでは良いのだが──
「……怖ええ」
運良くワープポイント周辺に敵の影は見当たらないが、それもいつまでのことやら、いつ現れてもおかしくない。今はチェイスウォークで身を隠しているとはいえ、それが通じない敵もいると聞いている以上、絶対安全ではないからだ。
ぶるっと全身を揺らして鳥肌を振り払い、チェイサーは己を奮い立たせるように両手で頬を包んでから軽くはたく。
不精に伸ばしたぼさぼさな紫の髪が合わせて揺れた。
アルコールの力も手伝って、ロードナイトに大見得切って生体研究所に侵入したチェイサーだったが、フロア全体に漂う陰惨な空気に早くも後悔しはじめていた。
正直に言ってしまえば、チェイサーがここにきたのはこれが初めてだった。
それもそのはず、ロードナイトが言った通りここは生半可な強さで来ても返り討ちに遭うのば関の山。相応の強さの者が万端に準備を整えて初めて狩りになる。
理屈ではそれを判っていたチェイサーだが、アルコールで溶けた理性と生来の負けん気が強い性格が災いした。
「……証拠。証拠……ど、ドロップじゃなくても別に……いいよな」
行ってきたと判るもの、例えばこの崩れた破片なんかを持って帰れば、とりあえず任務は達成だ。あとは二階で入手した研究記録を差し出して、ドロップ運がなかったと嘆く振りをすれば良い。
特徴的なものでないと意味がないな、とチェイサーはしゃがみこんで辺りを物色し始める。
「んー、これは……いやいやダメだ。くっそう、生体にきた証拠とか言ったって何が良いかわかんねえよ」
いまだアルコールの抜け切っていないチェイサーはぶつくさ文句を言いながら、床の瓦礫を拾っては放り投げ、また拾ってはそれを鑑定していた。
からんころんと瓦礫が転がる音が静かなフロアに響く。
二、三度それを繰り返した次の瞬間、チェイサーの背筋を悪寒が一気に走り抜けた。
本能的にその場を飛び退いたその直後、銀色の煌きがチェイサーの首があった辺りで弧を描く。
殺気の篭った高速の一閃、気づかなければ確実に屠られていただろう。
「あっ、あぶっ、あぶぶっ」
「チッ……避けたか」
床を這ってなんとか幾分か間合いを取ったチェイサーが殺気の源を見上げると、そこには唇を歪ませたホワイトスミスが、重量のありそうな斧を軽々と抱えて立っていた。
言わずと知れたここ、生体研究所三階の住人。ホワイトスミスのノンライフ・クリーチャー、ハワード=アルトアイゼンである。
刃煌くあの斧が自分に向けられたことを実感し、今更ながら自分の命が紙一重だったことに震えながら、チェイサーはハワードに向けて指を差す。
「な、なんで俺がいるってわかったんだ! ホワイトスミスにはトンドルもチェイスもきくはずだろっ」
「馬鹿か、お前」
半ば嘲るようにハワードは、喉を震わせどもり気味のチェイサーを見下ろす。
「隠れてたってからころ音たててりゃ誰かいるのくらいわかるだろうが。おまけに声も聞こえたしな」
「ででででも姿が」
「姿が見えなくったって、あとはあたりをつけてこいつをぶん回すだけだ」
「そ、そそそうか」
敵と会話をしているこの事態を、チェイサーは恐れながらも不思議に思い始めていた。
相手の隙を付いて再び身を隠してしまえばハワードから逃れることが出来るだろう──一応ストームガストがあるとはいえ倒すのは流石に無理だろうが。
こうして話をしていると、そこに人情味を感じてしまうのだ。馬鹿にされているのは確かだが、いちいちこちらの質問に答えてくれている。
無論内容が内容なので、親しみとは縁遠い。そして今ハワードから醸し出される陰鬱な雰囲気がそれに拍車をかけているのだろう。
「……」
「ななっななんだよ」
壁にぴったり背をつけ、隅で震え続けているチェイサーがふと顔を上げると、斧を抱えたまま、ニヒルな笑みを浮かべたハワードが悠然と近づいてくる。
その段に至ってようやくチェイサーは身の安全を確保することを思い出す。距離は決して安全を保障するものではないのだ。
これ以上後ろには下がれないので、仕方なしに横へ這いずる。恐怖のあまり多少足腰から力が抜けていた。チェイスウォークで移動すればまだ逃げおおせたかもしれないのだが、チェイサーは軽いパニックを起こしていた。
「く、くるな」
「立場を考えろ侵入者」
か細い抗議を切って捨てたハワードが歩み寄ってくる。
懐に忍ばせている蝶の羽とハエの羽の存在すら忘れ、チェイサーは自らの命が風前の灯であると諦観の心境で、これから自分に振り下ろされるだろう斧を見つめた。
冷たい表情を浮かべたハワードに見下ろされ、人生の終焉を覚悟したチェイサーの耳に聞こえたのは、予想と遥かに異なった言葉だった。
「……ああ、お前の目だけあいつに似てるな」
「は?」
聞き返すこの質問にはハワードからの返事がなく、ぽかんとして首を傾げたその瞬間、何かの力で躯が揺らされチェイサーの視界が暗転する。
軽く打ったらしい頭をさすりつつ、背中に冷たい床を感じながら、何が起きたのか状況を把握しようと周囲を見渡すと、先ず眼前に広がる肌色。次いでその逞しい躯を申し訳程度に覆う上衣。
恐る恐る視線を上げていくと、そこには予想したとおりハワードの顔があった。
「あの、えーっと」
「職は違うが……ああ、髪型もか」
言いかけた言葉を黙殺し、ハワードはチェイサーの細い顎を無造作に掴む。
組み敷かれた状況と体勢、そして無遠慮な行為にチェイサーは恐怖も忘れて猛然と腹立ちを覚える。だがそれを口にするのは何故か躊躇われた。
自分を見つめるハワードの虚ろな瞳の向こうに潜む何か──正体のわからないものを感じてしまったのだ。
だからなのか、ハワードの顔がゆっくり降りてくるのを、チェイサーは抵抗もせずにただ眺めながら待った。
顎を掴んだ乱暴な仕草とはギャップのある優しいキスに戸惑う。軽いスキンシップ程度の、例えば抱きついたり頬へのキスだったりといったじゃれあいならばしょっちゅうあるチェイサーであったが、しっかりとした経験は殆どなかった。
だがその乏しい経験に照らし合わせても、ハワードのキスが上手いことはわかる。暫し口内を弄ばれ、唇の隙間から軽く艶めいた息が出てしまう。
若干翻弄されるのが悔しいような、けれど抵抗する気が起きないのは、ハワードの見せる表情のせいだろう。キスをしている間も何故か閉じることが出来なかったチェイサーの瞳には、自分以外の誰かを見ている、痛々しさを感じるハワードが映っていた。
唇が開放されても、ハワードのその表情は変わらない。
「安い酒飲んでるな」
「……うっせ。ならてめーは良い酒飲んでるとでもいうのかよ」
「ああ。お前が一生かかっても飲まないようなのをな」
抑揚のない声でハワードは体を起こし斧を抱えなおす。
さっきまでの体勢を考えて、てっきりどこまでやられてしまうのかとぼんやり思っていたチェイサーは拍子抜けする。
ぽかん、としてハワードを見上げると、当のハワードはごそごそと懐を漁りチェイサーへ何かを放る。暗がりでよく見えなかったチェイサーは放られたあたりに手を伸ばすと、四角く薄い物が落ちていた。
──これは、まさか。
「詳しくは知らないが、これがありゃ良いだろ。拾ったらさっさと帰れ」
「…… あ、ああ。これサンキュ」
さっきのキスの代金だ、とハワードが投げて寄越したものを拾って確認すると、それはハワードの名刺だった。
察するに、ぶつくさ呟いていた独り言を聞かれていたらしい。
希少価値の高いMVPのものではなかったが、生体研究所にきたというこれ以上ない証といえる。これならあのロードナイトも文句はないだろう。露店で買ったのかと揶揄される可能性もあるが、それを言ったら何を持っていっても同じこと。
自嘲の色が混じる笑みを浮かべたハワードがチェイサーに笑いかける。
「さっきの続きが欲しかったらまた来るんだな。お前を覚えてて、俺の気分が乗ったら叶えてやるよ」
それだけ言ってハワードはくるりとチェイサーに背を向け、闇へと姿を消す。
残されたチェイサーは、暫くその場で放心する。
一体何が起きたのか、一部始終を人に話せば夢じゃないのかと一笑に付される可能性が高い。チェイサー自身が人から聞いたとしても同じ反応をするだろう。
だが唇に残された感覚が、そして何より手にした名刺の感触が、現実だったのだと主張していた。
「とりあえず……帰るか……」
何故自分は殺されなかったのか。何故自分にあのような振る舞いをしたのか。何故こんなものをくれたのか。何故そのまま立ち去ったのか。
疑問はいくつも浮かんだが、これ以上ここに留まっていても悪戯に危険が増すだけだ──そう思ったチェイサーは、幾分納得のいかない表情を浮かべながら、プロンテラへと帰還する為、蝶の羽を取り出し頭上に掲げた。
普段自炊派なのに、今日に限ってたまたま食材が切れていたので夕飯を適当に見繕おうとプロの街を歩いていて、たまたま行きつけの安くて美味い屋台が店閉じていたので他のとこに行ったら、これまた偶然にも知り合いのロードナイトにばったり会った。
冒険者同士、久々に会ってする事といったら飲みながらの近況話。折りよく時間も夕食前だったおかげでとんとん拍子に話が進み、適当に近い店で飲むことになったわけなんだが。
奴の口から出てくるのがまあ自慢ばかりで、MVPなんて取り慣れてるだとかエンドレスタワーじゃ自分が要だとか。そこそこ規模のでかいギルドにいる奴と違って、俺は基本的にソロばかりなので人脈もあまりない。たまーに知り合いのハイプリとペアしたりする程度。
だからこいつとの環境差から生まれるものは仕方ないと思っていた。
こいつの、ある台詞を聞くまでは。
「ま、ソロ性能でもお前に負ける気はしないぜ。なんたって俺はあの生体研究所のレベル制限エリアでもソロが出来るしな」
機嫌よさげにジョッキを豪快に開けながら話す奴の自慢、たあそれがソロに関してだっていうなら俺だって黙ってない。伊達にソロ暦長いわけじゃないんだぜ。
「何言ってんだ。俺だってレベル制限区域に入るくらい出来るぜ」
だが奴は俺の反論を鼻で笑って受け流した。
「入るだけならな。でもソロはいくらなんでも無理だろ。ま、お前みたいなヒヨっ子チェイサーにはまだまだ遠い場所ってことだよ」
カチン、ときたね。そりゃそうだろ、普段PTの前衛ばかりでソロなんてほぼしない奴と比べて、俺がソロの立ち回りで負けるわけない。
──今思えば多分に酒が入っているせいで、俺の気は普段ポリン程度のものがマスターリング位には大きくなっていた。あ、強さじゃなくて体積な。
「は、何言ってんだ。俺がソロの立ち回りでお前に負けるわけねえよ」
「無理無理。いくらお前が盗作でストームガストいけたって本職の廃魔にゃかなわねえし、ODならともかくあそこじゃ通用しないね。第一そんな華奢な躯じゃ一発くらっただけで逝っちまう。立ち回りでカバーできる問題じゃねえよ」
この俺でさえ白スリム積んでいくとこなんだから、と奴は笑う。
「お前、魔法盗作型馬鹿にすんなよ。上級ダンジョンだって行けるんだ。こないだだって俺はグランドクロス盗作して、ハイプリペアで修道院の三階だって行ってきたんだからな」
「ほーそりゃすげえ。だが今話してるのはソロでの生体研究所だからな」
「けっ、上等だ。なら今から行って来て証明してやるよ! ソロだって行けるって事をな!」
「おおいいぜ、ならレベル制限区域ならではの物を土産に持ってきたら信じてやる。まさかとは思うが、露店で買ったりすんなよ」
「うっせ黙れ、後で見てろよ」
あまり酒を飲む習慣のない俺にしては珍しい、三杯目を数えるジョッキをぐぐっと一気に空にした俺は、多目の勘定をテーブルに叩きつけてプロンテラの南門に向かった。
無論、イズルートからの飛行船に乗る為に。
その日、俺は相当に苛々していた。
切欠自体は大したことじゃなかった。ああ、確か見回りのことについて話してたんだっけか。
俺は単独での見回りはそろそろ危険なんじゃないかと、二人以上での見回りを提案した。日々レベルアップしていく侵入者達に備えて、珍しく安全を求める意見を出した。
だがエレメスは、女性陣はそのほうが良いだろうと一旦は賛成したものの、自分に限っては単独で良いと言い張った。
それじゃ意味がない、と俺が言えば、エレメスは女性陣の負担を増やしたくないという。なら男性陣でローテを増やせば良いといえば、自分は一人で十分だとぬかす。
気持ちはわからないでもない。けれど俺は先日集団の、それも恐ろしく構成を練った侵入者達を見かけ危機感を感じたのだ。と理由を何度も言っても、俺の話が誇張だと思ったのか頑として受け入れない。ここに関しては普段の俺の言動が仇になっていた。
軽い物言いから段々と口論になり、止めようと努力してくれた仲間の努力も虚しくそれは激しいものになっていた。
俺はあいつが地に伏せているところを見たくないだけなのにだ。
プライドの高いあいつに、それは耐えられない屈辱だろうと思っての、俺にしてはかなり珍しい慎重論だったのにだ。
何故、それが判らない。
──それが心配りが逆にあいつの矜持を傷つけていたんだろうが、そのときの俺は頭に血が上っていて判らなかった。
結局見かねたセイレンが間に入り、お互いもう少し頭を冷やせと至極もっともなお叱りを受け、今の状態で話し続けても埒が明かないだろうと俺らは自室へ戻された。
忌々しくはあったが、言われていることは事実だったので大人しく従った。
……あいつを心配していただけなのに。
去り際に見せたあいつの、俺に向けた冷たい視線を思い出すと、理解されなかった苛立ちと寂寥が交互に俺を苛んだ。
悪いことを言ったとは思っていない。今回に関しては、あいつが悪い。
今一人でフロアを回ることの危険さを、あの石頭にどうすれば判らせてやれるか。
だったら、見せてやれば良い。
一人歩きをして傷ついた俺の姿でも見せてやれば良い。少なくとも俺はあいつよりもタフだ。多少傷ついたところで、痛くも痒くもねえ。そうして仲間に「ほれみたことか」と叱られて、海よりも深く反省させてやるか。
そう決断した俺は愛用の斧を手に取り、皆に気づかれないようそっと自室を後にした。
生温い空気がチェイサーの躯にねっとりと纏わりつく。
酔っているとはいえ、オーラ間近の彼にとって流石に二階の敵は苦もなく倒すことが出来、悠々と三階へと侵入を果たせた。
果たせたまでは良いのだが──
「……怖ええ」
運良くワープポイント周辺に敵の影は見当たらないが、それもいつまでのことやら、いつ現れてもおかしくない。今はチェイスウォークで身を隠しているとはいえ、それが通じない敵もいると聞いている以上、絶対安全ではないからだ。
ぶるっと全身を揺らして鳥肌を振り払い、チェイサーは己を奮い立たせるように両手で頬を包んでから軽くはたく。
不精に伸ばしたぼさぼさな紫の髪が合わせて揺れた。
アルコールの力も手伝って、ロードナイトに大見得切って生体研究所に侵入したチェイサーだったが、フロア全体に漂う陰惨な空気に早くも後悔しはじめていた。
正直に言ってしまえば、チェイサーがここにきたのはこれが初めてだった。
それもそのはず、ロードナイトが言った通りここは生半可な強さで来ても返り討ちに遭うのば関の山。相応の強さの者が万端に準備を整えて初めて狩りになる。
理屈ではそれを判っていたチェイサーだが、アルコールで溶けた理性と生来の負けん気が強い性格が災いした。
「……証拠。証拠……ど、ドロップじゃなくても別に……いいよな」
行ってきたと判るもの、例えばこの崩れた破片なんかを持って帰れば、とりあえず任務は達成だ。あとは二階で入手した研究記録を差し出して、ドロップ運がなかったと嘆く振りをすれば良い。
特徴的なものでないと意味がないな、とチェイサーはしゃがみこんで辺りを物色し始める。
「んー、これは……いやいやダメだ。くっそう、生体にきた証拠とか言ったって何が良いかわかんねえよ」
いまだアルコールの抜け切っていないチェイサーはぶつくさ文句を言いながら、床の瓦礫を拾っては放り投げ、また拾ってはそれを鑑定していた。
からんころんと瓦礫が転がる音が静かなフロアに響く。
二、三度それを繰り返した次の瞬間、チェイサーの背筋を悪寒が一気に走り抜けた。
本能的にその場を飛び退いたその直後、銀色の煌きがチェイサーの首があった辺りで弧を描く。
殺気の篭った高速の一閃、気づかなければ確実に屠られていただろう。
「あっ、あぶっ、あぶぶっ」
「チッ……避けたか」
床を這ってなんとか幾分か間合いを取ったチェイサーが殺気の源を見上げると、そこには唇を歪ませたホワイトスミスが、重量のありそうな斧を軽々と抱えて立っていた。
言わずと知れたここ、生体研究所三階の住人。ホワイトスミスのノンライフ・クリーチャー、ハワード=アルトアイゼンである。
刃煌くあの斧が自分に向けられたことを実感し、今更ながら自分の命が紙一重だったことに震えながら、チェイサーはハワードに向けて指を差す。
「な、なんで俺がいるってわかったんだ! ホワイトスミスにはトンドルもチェイスもきくはずだろっ」
「馬鹿か、お前」
半ば嘲るようにハワードは、喉を震わせどもり気味のチェイサーを見下ろす。
「隠れてたってからころ音たててりゃ誰かいるのくらいわかるだろうが。おまけに声も聞こえたしな」
「ででででも姿が」
「姿が見えなくったって、あとはあたりをつけてこいつをぶん回すだけだ」
「そ、そそそうか」
敵と会話をしているこの事態を、チェイサーは恐れながらも不思議に思い始めていた。
相手の隙を付いて再び身を隠してしまえばハワードから逃れることが出来るだろう──一応ストームガストがあるとはいえ倒すのは流石に無理だろうが。
こうして話をしていると、そこに人情味を感じてしまうのだ。馬鹿にされているのは確かだが、いちいちこちらの質問に答えてくれている。
無論内容が内容なので、親しみとは縁遠い。そして今ハワードから醸し出される陰鬱な雰囲気がそれに拍車をかけているのだろう。
「……」
「ななっななんだよ」
壁にぴったり背をつけ、隅で震え続けているチェイサーがふと顔を上げると、斧を抱えたまま、ニヒルな笑みを浮かべたハワードが悠然と近づいてくる。
その段に至ってようやくチェイサーは身の安全を確保することを思い出す。距離は決して安全を保障するものではないのだ。
これ以上後ろには下がれないので、仕方なしに横へ這いずる。恐怖のあまり多少足腰から力が抜けていた。チェイスウォークで移動すればまだ逃げおおせたかもしれないのだが、チェイサーは軽いパニックを起こしていた。
「く、くるな」
「立場を考えろ侵入者」
か細い抗議を切って捨てたハワードが歩み寄ってくる。
懐に忍ばせている蝶の羽とハエの羽の存在すら忘れ、チェイサーは自らの命が風前の灯であると諦観の心境で、これから自分に振り下ろされるだろう斧を見つめた。
冷たい表情を浮かべたハワードに見下ろされ、人生の終焉を覚悟したチェイサーの耳に聞こえたのは、予想と遥かに異なった言葉だった。
「……ああ、お前の目だけあいつに似てるな」
「は?」
聞き返すこの質問にはハワードからの返事がなく、ぽかんとして首を傾げたその瞬間、何かの力で躯が揺らされチェイサーの視界が暗転する。
軽く打ったらしい頭をさすりつつ、背中に冷たい床を感じながら、何が起きたのか状況を把握しようと周囲を見渡すと、先ず眼前に広がる肌色。次いでその逞しい躯を申し訳程度に覆う上衣。
恐る恐る視線を上げていくと、そこには予想したとおりハワードの顔があった。
「あの、えーっと」
「職は違うが……ああ、髪型もか」
言いかけた言葉を黙殺し、ハワードはチェイサーの細い顎を無造作に掴む。
組み敷かれた状況と体勢、そして無遠慮な行為にチェイサーは恐怖も忘れて猛然と腹立ちを覚える。だがそれを口にするのは何故か躊躇われた。
自分を見つめるハワードの虚ろな瞳の向こうに潜む何か──正体のわからないものを感じてしまったのだ。
だからなのか、ハワードの顔がゆっくり降りてくるのを、チェイサーは抵抗もせずにただ眺めながら待った。
顎を掴んだ乱暴な仕草とはギャップのある優しいキスに戸惑う。軽いスキンシップ程度の、例えば抱きついたり頬へのキスだったりといったじゃれあいならばしょっちゅうあるチェイサーであったが、しっかりとした経験は殆どなかった。
だがその乏しい経験に照らし合わせても、ハワードのキスが上手いことはわかる。暫し口内を弄ばれ、唇の隙間から軽く艶めいた息が出てしまう。
若干翻弄されるのが悔しいような、けれど抵抗する気が起きないのは、ハワードの見せる表情のせいだろう。キスをしている間も何故か閉じることが出来なかったチェイサーの瞳には、自分以外の誰かを見ている、痛々しさを感じるハワードが映っていた。
唇が開放されても、ハワードのその表情は変わらない。
「安い酒飲んでるな」
「……うっせ。ならてめーは良い酒飲んでるとでもいうのかよ」
「ああ。お前が一生かかっても飲まないようなのをな」
抑揚のない声でハワードは体を起こし斧を抱えなおす。
さっきまでの体勢を考えて、てっきりどこまでやられてしまうのかとぼんやり思っていたチェイサーは拍子抜けする。
ぽかん、としてハワードを見上げると、当のハワードはごそごそと懐を漁りチェイサーへ何かを放る。暗がりでよく見えなかったチェイサーは放られたあたりに手を伸ばすと、四角く薄い物が落ちていた。
──これは、まさか。
「詳しくは知らないが、これがありゃ良いだろ。拾ったらさっさと帰れ」
「…… あ、ああ。これサンキュ」
さっきのキスの代金だ、とハワードが投げて寄越したものを拾って確認すると、それはハワードの名刺だった。
察するに、ぶつくさ呟いていた独り言を聞かれていたらしい。
希少価値の高いMVPのものではなかったが、生体研究所にきたというこれ以上ない証といえる。これならあのロードナイトも文句はないだろう。露店で買ったのかと揶揄される可能性もあるが、それを言ったら何を持っていっても同じこと。
自嘲の色が混じる笑みを浮かべたハワードがチェイサーに笑いかける。
「さっきの続きが欲しかったらまた来るんだな。お前を覚えてて、俺の気分が乗ったら叶えてやるよ」
それだけ言ってハワードはくるりとチェイサーに背を向け、闇へと姿を消す。
残されたチェイサーは、暫くその場で放心する。
一体何が起きたのか、一部始終を人に話せば夢じゃないのかと一笑に付される可能性が高い。チェイサー自身が人から聞いたとしても同じ反応をするだろう。
だが唇に残された感覚が、そして何より手にした名刺の感触が、現実だったのだと主張していた。
「とりあえず……帰るか……」
何故自分は殺されなかったのか。何故自分にあのような振る舞いをしたのか。何故こんなものをくれたのか。何故そのまま立ち去ったのか。
疑問はいくつも浮かんだが、これ以上ここに留まっていても悪戯に危険が増すだけだ──そう思ったチェイサーは、幾分納得のいかない表情を浮かべながら、プロンテラへと帰還する為、蝶の羽を取り出し頭上に掲げた。
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● このブログはクロストラブル/38.1の高山アキが執筆する、サイトやイベント関連のご連絡・萌語りなどの雑記と、小説の新作をupしておく保管庫場となっております。
● 小説は、サイト内に移動されたものから、一定期間をおいてこちらからは削除させていただきます。
● ジャンル・CPなどよろずとなっておりますので、各記事の説明書きをお読みの上、閲覧ください。
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